建学の精神

建学の精神と「校訓三則」

建学の精神

昭和女子大学の歴史は、斬新華麗な詩風をもって知られた詩人人見圓吉が、トルストイの理想とする「愛と理解と調和」に教育の理想を見出し、緑夫人とともに女子教育の道を歩みはじめたことからはじまります。

大正7(1918)年に終結した第一次世界大戦。この怒涛のように荒れ狂う世の中で新しい平和な社会を築くには、自己の進路を見失わない女性、すすんで世のため人のために自己の力を役立てようとする女性の力が必要だという情熱と信念が昭和女子大学の門扉を開きました。

「第一次世界大戦に勝って、英米仏露と共に世界の五大強国となり、国の力、国の富、国の文化も著しく向上したが、この裏面には悲しむべく、恐るべき不幸が潜在していた。それは利己主義と愛他主義、個人主義と全体主義、国家主義と無政府主義、資本主義と共産主義の思想が対立して、人と人はいたわる事も愛される事も知らず、自分の主義主張を唱えて一歩も譲らず、人と人は争い、国家と国家は戦って安んずるところがなかった。このとき家内がしきりにすすめたのが、トルストイの学校である。彼は軍職を退いてヤスナヤ・ポリヤナに塾のような形式の学校を建て、午前中に学科を授けて午後は近隣に病める者、傷ける者、貧しき者、老いたる者など、つまり他の愛なくしては生活ができない者の家を訪ねて、食を与え、衣を与え、看病し、掃除し、洗濯するなど養護に当たった。人々はこれをよろこび感謝したと言う。こんな学校があって、愛と理解と協調を旨とするならば、どんなに楽しい事であろう。(創立者の述懐・学園の半世紀より)」

女子教育への高い理想を抱く人々と人間性の充実と向上を希求する若い女性とが集い、「文化懇談会」と称する勉強会がはじまりました。そこでは、教育問題、婦人問題、一般文化等について、お互いが日頃抱く考えを語り合い、疑問とするところを論じ合いました。中心メンバーは人見圓吉・緑夫人、松本赳、加治いつ、坂本由五郎の5人で、当初は20数人の小さな会合でしたが、例会を重ねるごとに伝え聞いて参加する者は増えていきました。

そして、大正9年9月。まだ女性の高等教育や社会進出を拒み続けていた時流の中で、人見圓吉は師弟が生活をともにして学んだトルストイの学校にならい、「愛と理解と調和を旨とする新しい女性を育む学校を設立したい」と、5人の同士とともに私塾「日本女子高等学院」を創設しました。

戦争で傷つき、暗雲におおわれた世界を救い、新しい時代を切り拓くには、ぜひとも女性の力で文化を創造していかなければならない。「愛と理解と調和」を旨とする女性の力で、新たな世界を築かねばならないという情熱がつくりあげた学校。それが、昭和女子大学の前身です。

この精神は、創立当初に記された「開講の詞(かいこうのことば)」に高らかに謳いあげられています。

開講の詞

夜が明けようとしてゐる。五年と云ふながい間、世界の空は陰惨な雲に掩はれて、人々は暗い檻の中に押し込められて、身動きも出来なかった。けれど、今や、一道の光明が空の彼方から仄めき出して、新らしい文化の夜が明けようとしてゐる。人々は檻の中から這ひ出し、閉ぢ込められた心を押し開いて、文化の素晴らしい光を迎へようとしてゐる。

夜が明けようとしてゐる。海の彼方の空にも、わが邦の上にも、新らしい思想の光が、ながい間漂うてゐたくろ雲を押し破って、眩しいばかり輝き出そうとしてゐる。それを迎へて叫ぶ人々の声をきけ。霊の底まで鳴りひびく声を、力強いその叫びをきけ。既に目ざめた人々は、文化の朝を迎へる可く、身にも心にも、仕度が十分調ってゐる。

夜が明けようとしてゐる。われ等の友よ。その愛らしき眼をとじたまま、逸楽の夢をむさぼる時はもう既に去った。われ等は、まさに来る文化の朝を迎へるために、身仕度をとり急がねばならぬ。正しき道に歩み出すために、糧を十分にとらねばならぬ。そして、目ざめたる婦人として、正しき婦人として、思慮ある力強き婦人として、文化の道を歩み出すべく、互ひに研き合はなければならない時が来たのである。

大正九年九月十日
日本女子高等学院

当初は、現在の文京区にあった小石川幼稚園を間借りした教室でした。しかし、次第に集う人々が増えて教室が手狭になり東中野に仮移転し、大正15年には中野区上高田に新校舎を建設しました。このようにして、昭和女子大学の基礎は築かれていきました。

しかし、第二次世界大戦の空襲を受け、ただひとつの寮を残して校舎全てを消失し、その4か月後に終戦を迎えました。敗戦により国民の意気は沈滞してしまいました。

「昭和20年8月15日、まさに有史以来の悲痛な日であった。ガダルカナル島以来やがて来たるべき運命であると、予め覚悟はしていたものの、突如としてしかも厳粛な事実となっては如何とも致し難かった。あたかも信頼しきっている乗船が太平洋のただ中で沈没を宣言されたと同じで、どの方向にどうしたらよいかなす術を知らなかったのである。しかも3千に余る学生の眼が射るように見詰めている。4月13日と5月25日の2回に2千150坪の学校施設を消失して、ただ一つ最も古く最も小さい寮が残ったのみで、その大畳の一室に起居していた時であった。国既に敗れて何の学問ぞ、何の教育ぞ。理解してくれ、迎えてくれる人があってこその学問であり、教育ではないか。今日を限り8千万国民は全部奴隷だ。奴隷に必要なのは労力だけだ。むしろ学問や教育は無用の長物であると考えて、絶望の淵に陥った。5日目の朝、苦悶に苦悶を重ねて悄然と丘の上の校舎の焼け跡に立っていると、見るかげもなく焼け失せた大都の空はるか東端から、いつものように太陽がもくもく昇りはじめて新鮮な光を放ってあたりが生き生きして来た。その時、『そうだ、学問はまさにこの太陽である。どんな人にも、所にも、太陽が必要のように、学問は敗戦国民にも必要だ。それを伝えるのが教育だ、やろう、やらねばならぬ』とその瞬間、総身に力が湧き上がってぴちぴちとした元気が出た。青年のように希望がかがやいた。その日から夜に日を継ぎ、精進に精進を重ねて、ぐいぐいとまっしぐらに進んで来た――こういう意味に於て8月15日は、本校にとってまさに起死回生の記念すべき日であった。国家と共に新生の記念日であった。(学園の半世紀)」

旧東部第12部隊(近衛野砲連隊)跡地の現キャンパスに校舎を移転し、現在に至るまで発展しました。

校訓三則

このように、いかなる困難に陥っても自ら道を切り拓いて前進し、一歩一歩向上発展を重ねた経験が、現在の昭和女子大学の特性をかたちづくり、学生の気風となっています。

また、「開講の詞」に掲げられた意味を「世の光となろう」ということばに集約し、建学の精神をいまに引き継いでいます。

本学園は、上品で礼儀正しく、清純で規律を守り、堅実でこころ豊かな知徳兼備の女性を育むことを教育目標としています。あるべき姿は「校訓三則」に示しています。

清き気品

清き気品とは、清楚な品位を保つことです。これは、あたたかく広い心で人と接すること、相手の気持ちを思いやること、礼節を重んじることなどで身につけることができます。ものの考え方から身の処し方、そして服装にいたるまで、学園で学ぶ者として清楚な品位を保つことが大切です。

篤き至誠(あつきしせい)

篤き至誠とは、自分と同様に他を愛し、愛と理解と調和を実践し、誠実に日々精進することです。正しいと思うことは勇気を持って行い、学友との交流を大切にし、公共の施設を使用する際には行き届いた配慮をすることが、この精神体得に通じる道です。

高き識見

高き識見とは、志高く豊かな知識を持ち、広い公平な判断ができることです。専門とする学問に真剣に取り組むこと、また、専門以外の知識を深め内面を磨き、懸命に生きる道を探求することです。

昭和学園とトルストイの教育思想

ロシアの文豪トルストイと本学園との深い関わり。これは、創立者の詩「女性文化」、「寂寥(せきりょう)」の中に見ることができます。

女性文化

トルストイはロシヤに
タゴールはインドに
世のため、人のためになるような
学校をたてたと言う、
叶う事ならば私どもも、
しみじみとして家内が申しました。

大それた事を言うものである、
学も、智も、識も、徳もなく
富ももっていない、
あるのは人の善行美事をながめ
それを学ぼうとする努力だけ。

(後略)

寂寥

トルストイは軍職を退いて
ヤースナヤ・ポリャーナに帰り
学校をたてたという。

彼は人も知る伯爵
大地主で堂々たる軍人、
しかも山上の垂訓、
人もし右の頬をうつ者あらば
さらに左の頬を与え
もし上衣を奪うものあらば
さらに内衣をも与えよ、と
無抵抗主義を唱え
日露戦争のころ非戦論をとなえた。

午前は生活に必要な学科、
午後は貧しい家、病人のある家、
子供や老人の多い家、
職のない人、あっても働かない人など
人手を求めている家をさがして
炊事や看病、洗濯や掃除
その他一切の仕事を手伝う。

近隣の人からよろこばれ
感謝され、大事にされたので
お手伝いはつらかったが
生徒はよろこんだ。

(後略)

トルストイは偉大な作家・宗教家であるとともに教育家でした。知識を詰め込むことを優先する教育に反対し、子どもたちが自ら問題意識を持てるよう手助けすることが教育の本質であると考え、ヤースナヤ・ポリャーナに農民の子どもたちの学校を建てて実践しました。そして、人と人、自然と人間との調和に最大の価値を求め、平和を愛し、仲間を大切にし、労働をいとわないことを教えました。子どもたちが自然現象に関心を抱き感動を覚えるよう、野外での教育にも力を入れていました。人見圓吉・緑夫妻はこのトルストイの「愛と理解と調和」を基調とする教育観に強く共感し、本学園を創立しました。


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